日時 日時不明(3月くらい?)
参加者 20神谷、大井
-1日目 松本から新潟
大学前のメーヤウで昼食をとり、駅前へ。
輪行が遅れてしなの課金。神谷君本当にごめんなさい(大井)。快活楽しー
0日目 新潟からフェリー
海は荒れ気味だった。ほぼ寝てた。嵐の予報にビビる。風呂で一緒になったおじちゃんから雪道の危険性を説かれ、大井ビビる。
1日目 小樽からニセコ
途中脱走犬が追いかけてくるハプニングはあったが、事故無く進行。
吹雪の予報だったので昼過ぎからニセコアンヌプリのふもとでキャンプ。
混浴風呂に入ったが全員湯浴みを着ていた。
なお若い人たちは岩陰に潜み、カップルでイチャイチャしていた。爆ぜろ。どうせならウコチャヌプコロしろ。
2日目 ニセコから長万部
ニセコのパウダースノーが積もっていた。積雪路をゆっくり走る。
民宿の部屋にいっぱい入ってきたネコがかわいい。結局何匹いたんだ。
夕食は長万部の弁当屋でザンギを購入。たいへん美味でした。
3日目 長万部から函館
噴火湾沿いの国道を延々と走る。駒ヶ岳きれい。
ラッキーピエロ、マジでうまい。カロリーもやばい。
大井、車間距離を間違え泥だらけに。
4日目 函館観光
五稜郭、赤レンガ倉庫、函館山をめぐった。神谷は明日の特急料金の高さに萎えていた。
大井、神谷が18切符のルールを知らなかったことにここで初めて気づく。
快活の料金をケチるためゲーセンに行く。ダンスラ楽し~
5日目 汽車で稚内まで
大井、グランドシートとモバイルバッテリーの入った袋を汽車に忘れる。(大井:焼きそばも入ってたよ!)
6日目 稚内から枝幸まで
大井、稚内市内で3回コケる。宗谷岬からオホーツク沿いに走ったら宗谷丘陵が綺麗だった。
マジで自然しかない。
7日目 枝幸から紋別まで
ひたすらにオホーツク海沿いを走る。牧場と漁港しかない。コンビニのある町は都会。セコマならなおよし。
8日目 紋別から北見まで
サロマ湖はほぼ凍ってた。登りの長大トンネルは心に来る。北見の快活でマッサージチェアを使おうとしたらその店舗にはおいていなかった。悲しい。
9日目 北見から網走まで
結月ゆかりを探す一日。女満別空港にはいなかったが網走にいた。
網走監獄では変な刺青の死刑囚の皆さんが出迎えてくれた。
キャンプ場は雪の中だったのでパーキングで寝た。線路とトンネルの近くなので、営業中の汽車の汽笛にビビる。
神谷、追いコン最中の加藤に電話をかけ、仕事をしていないことについて説教を食らう。
女満別空港でスープカレーを食す。明らかに旬ではない野菜が入っており、値段の高さに納得。味も美味。でもメーヤウの方がしゅき(大井)
10日目 網走から中標津まで
天に続く道最高。どこまでも続く道と流氷
宿の人に常識を問われバスで帰れと言われる。常識あったらこんな旅してない。
都会のビジホより高いドミトリールームとはいったい…
11日目 中標津市内移動
音ゲー強化合宿。ダンスラガチ勢の街中標津
キャンプ場のおじさんのご厚意でペンションに泊めてもらう。むそう村、みんなも行こう!
おじさんと会話していると、人脈のやばさが分かりビビる。なお農学部と間違われ、今でもその誤解は治っていない。
12日目 中標津から弟子屈まで
二日連続で休足日。温泉入ってキャンプ場で優雅に焚き火した。雪上+鉈なしで火をつけるのはマジでむずい(ついた)。大井は早々に疲れ果て、結果神谷一人の焚火になりかけていた。(申し訳ない)
通年でやっているキャンプ場なので、もし同じことをする人がいるならおすすめ。
13日目 弟子屈から釧路まで
木村さん、お世話になりました。
釧路名物スパかつを食す。昔ながらのナポリタンに、暴力的なまでのうまさを持つカツが乗っかり、最強である。スパゲティのケチャップソースとカツが絡みこれまた美味。
これのために釧路に住むのもアリかもしれない。
14日目 釧路から帯広まで
霧の釧路湿原を走る。最果てって感じ最高。神谷、帯広市街についてからパンクする。1000㎞以上漕いできて残り30㎞地点である。
帯広はまねきねこで宿泊。二人なので狭い部屋に通されるかと思いきや、DAMの最新機種の入ったパーティールームに通される。
15日目 新雪ときどき競馬
帯広に15cmの新雪が積もった。未圧雪パウダーの歩道は楽しかったが車道は地獄。
ばんえい競馬を開場と同時に観戦する。毎レース賭ける人間の屑。
イレネー記念アツかった。勝った後の豚丼うめぇ~。食事代まで含めれば普通に赤字である。
宿は再びまねきねこ。土曜日という事もあって、大騒ぎする団体客さんの多い事多い事。
都会って怖い。
16日目 ばんえい記念
-1日目の輪行の遅れは大井が原因であるため、昼食のジンギスカンをおごる。
2人で3000円ちょうどなので、そこまで高くなくてよかった。
ジンギスカンクソ美味かった(神谷)。
再び競馬場へ向かう。この日はばんえい競馬最大のレース、ばんえい記念の為人が押し寄せていた。全く人がいない地域ばかり走ってきた旅のゴールが、たった一つのレースを見るために大勢が集まった場所であることに、なんとなく感動を覚えた。
メジロゴーリキ、おめでとう。レースを見た後は汽車で千歳までワープ。
大井、寝ぼけてクイックリリースが外れかけた状態で宿まで走る。
17日目 千歳から苫小牧まで
空港まで自走中、自衛隊の車両にいっぱい追い抜かされた。空港に駐輪場はない。雪だまりに突っ込んでおいた。セコマで最後のパスタを買い、フェリーに乗った。
フェリーの部屋は一番安いツーリストB。しかし大部屋にいるのは我々2人だけであり、スイートよりもでかい部屋を手に入れた。
隣の部屋は陸上自衛隊様御一行だった。おそらく朝抜かされたのと同じ部隊。お仕事お疲れ様です。
出航してすぐ、甲板で酒盛りをしていたら、同年代の若人に引かれた。
18日目 新潟から松本まで
冬の北海道から春になった長野に帰ってきたと思ったんです。雪降ってんじゃん。松本についてまずはメーヤウへ。ただいまつもと
輪行 #とは
神谷のページ
僕はとにかく雪が好きだ。スキーも好きだけど、“雪”という概念全てが好きだ。だからこそこんなランをやろうと思ったのだろう。大井君が乗ったのはビビったけど。
実は雪がしんどいということも初日を除いてなかったので、楽しかった。個人的にはけっこうオススメできる旅だ。ヤバそうならさっさと宿を取れば快適に過ごせる。装備をそろえると結構金かかるけど、でも冬山装備買って冬美ヶ原だけでしか使わないのはもったいなくない?
同族がマジで1人もいなくて笑った。強いて言うなら網走で寝た時に隣にいたバイクのお兄さんぐらいか。同族がいない分、縦断勢の応援にあてられる熱量が一転集中した感じがあった。コンビニ寄る度に話しかけられた。
全員にタイヤ何履いてるの?と聞かれた。
持って行ってよかったもの
・すきパス(すき家で1食70円引き)
・ナイフ(焚き火に使った。一発で壊れた)
・水筒(お湯は生命線)
・日焼け止め
地理オタクの独り言
面白かったポイントとして廃線跡がある。北海道の街の歴史はほとんど鉄道の歴史と言っても過言ではない。すべての大きな街の歴史は鉄道駅から始まった。そんな土地だから今は鉄道が通ってない街も駅を中心とした街の形が残っているし、国道沿いに意味深な鉄橋と盛り土がある。特によかったのは斜里、根北峠のクソデカくてボロボロの橋梁と、中標津の街に残る駅の雰囲気と駅前の繁華街。分かりやすいのは紋別の国道沿い。廃線の話は地元のおじさんとのいい話題になるから知っておくといいかも。(釧路の木村さんと大井君が寝てからずっと喋ってた)北海道の鉄道最盛期の路線図とか用意していくと楽しそう。
あとは植生とか積雪量の違いを肌で感じられたのが楽しかった。道南と道北で全然違うのは分かるが、余市と倶知安、斜里と標津など峠を越えただけで全然違う雰囲気なのも面白かった。雪のない時期には感じられない差を実感した。
個人的な後悔は出発前にゴールデンカムイを読んでおかなかったこと。なんで帰ってから読んだんだ。やはり旅は事前の予習で楽しみ方が変わる。ツーリングマップルを読み込んでおくのもいいし、その土地が舞台の作品を見ておくこともいい。すごい人は歴史資料を漁って町の名前の語源を探しだす。「北の国から」とか観てからもう一回北海道巡ろうかな。
大井のページ
2年生からチャリ部に入り、とりあえず何かしら長距離の旅に出たいとずっと考えていた。しかしながら、諸々の事情で前期は忙しさとメンブレ案件にやられ、後期はメンブレ案件を回避するために資料室漬けとなった結果、ろくすっぽチャリにも乗らない自称チャリ部員が完成したわけである。
そんな折、神谷君から海外ツーリングの話を聞かされ、昨今の情勢から冬北海道ツーリングとなった後も、これに参加しないようでは、いよいよもって何のために自転車を買い、チャリ部に入ったのかわからないではないか、と思い至り参加させていただいた。
基本的には神谷君が前を引いてくれたので、大分楽をさせてもらった。景色の良いところでは持って行った一眼で写真も撮ったので、興味がある方はぜひ見てほしい。景色以外は自転車しか映っていないが…。
もっていって良かったものと言えば、やはりカメラが一番に挙げられる。ただし、持っていくならミラーレス一眼がおすすめ。光学ファインダー式の一眼はかさばる。
・その他あると便利なもの
・大容量モバイルバッテリー(落とさないように)
・酔い止め(フェリーで快適に過ごせる)
・2、3本線が刺せるアダプター(バッテリーを充電しつつスマホも充電できる)
歴史オタクの独り言
私は文献史学の人間なので、残念ながらアイヌ文化等文化人類学に対しては精通していない。その為浅学の身ではあるが、北海道を回る際に知っておくべき、近世・近現代の簡単な歴史とアイヌ文化について記す。読むのがめどいならゴールデンカムイを見てください。そもそも北海道が日本となるのは、近代国家の起こりと共に明確に日本領と組み込まれたわけであり、近世までの北海道は蝦夷地と呼ばれ、日本の正統権力であった徳川幕府の領地は、松前氏が管理していたアイヌとの交易地である函館のみであった。七ヵ条の起請文や場所請負制度などによる苛烈な実効支配はありながらも、ともかく地理的な支配地域は函館のみであり、その為前頁で神谷君の言っていた「北海道の町の歴史は鉄道の歴史」というのは近代になってから、明治政府によって鉄道が引かれ、初めて入植民の町が出来たという事なのである。感覚としてはアメリカへのヨーロッパ人入植と西部開拓時代と同じと言えよう。
さて、アメリカ入植の時、ネイティブアメリカンがいたように、北海道にも先住民族がいた。それがアイヌである。アイヌの人々は我々内地の人間のことをシサム(隣人の意)と呼んだ。松前藩による差別がありながらも、その実態は我々とは違う文化体系をなんとか存続させて生きていた民族であった。先ほど「蝦夷地」という言葉を用いたが、実は「蝦夷地」とは古代においては陸奥国、江戸時代においては函館周辺以外の北海道すべてを指す言葉として用いられた、いわば中央権力の及んでいない、別の国、別の文化圏を表す言葉なのである。日本における近代化は、多くの歴史家が指すように徳川幕府倒幕の前後であり、適当に見積もって150年程前である。アメリカ入植が1493年であることを考えるなら、つい最近まで別の国だったともいえる場所が、現在の日本には組み込まれているのである。そして現在でも、入植民の文化と合わせ、アイヌ由来の文化は根強く残っているのである。
本土ではみることのない景色、気候、食文化に触れ、そして歴史に思いをはせ、北海道という「別世界」にエキゾチックなものを感じながら、旅をしてみてはいかがだろうか。